この年末年始は、どういう訳か訃報が多かった。

益田高校吹奏楽部の恩師の一人、高橋先生が逝かれた。 (やーびーのお葬式を思い出す)
高校の音楽教師で、合唱部や吹奏楽部の指導をされ、定年後は、ここ、地元益田市の合唱団の指揮指導やコンサート、企画などに関わり、地元の音楽発展に尽力された。
現在は建物も残っていない県立工業高校の音楽教師で、吹奏楽部の指導に入り込んでいらっしゃった。
ので、益田高校のあたしたちも、お名前もお顔も知ってた先生だった。
そして、高3の時、益田高校へ来られた。
あたしら3年生にとっては、興味津々だったかも。
優しい先生だった。
わずか1年間の生徒だったけど、そこに起こる出来事が、印象やご縁を強くすることもあるようで。
のちに先生と音楽で関わる度に、その頃の話をしてくださる事が嬉しかった。
転任してこられた年、あたしらは3年生になって、納得いかなかった前年の県大会銀賞を胸に含んで、
6月の定期演奏会、8月のコンクールへと向かっていた。(ちなみに1年生の時は金賞なれど中国大会へは行けず)
今は解体する事もできないまま再利用されている、地元益田市で島根県立石西県民文化会館がオープンしたばかりで、
定演も、吹奏楽コンクールの県大会もそこで行われた。
そして中国大会は出雲で行われることになっていた。
開催県枠で、中国大会へ4校?(忘れてしまった)出れる県大会となったわけ。
課題曲 序曲「南の島から」 自由曲「アルメニアンダンスパート2より ロりからの歌」
その頃の益田高校吹奏楽部はA.リードと相性が良かったと思う。
よく指導に来られてた秋山紀夫先生もリード好き!!
諸先輩方や先生方のこれまでの積み重ねを、高橋先生やほかの先生方の力とわたしたち部員とで、中国大会初出場という花を開花させることができた年となった!!
そしてその初めての中国大会は、リードミスなど全く関係なく、堂々の金賞を獲得した。
想いで深い昭和55年度となった。
このころは益田市の吹奏楽もすっごく盛んで、先生方も半端じゃなかった!!
全国常連の川本高校や出雲高校、その次に入るために、島根県中が熱かった。
前任の山崎先生も高橋先生も、合唱部との掛け持ちで大変だったはず。
しかも合唱部は全国大会常連!!
音楽室ではなく、校庭の端にある、当時冷房も暖房もない、オンボロな小屋みたいな練習場所「同窓会館」でも、
あたしたち部員は腐る事も無く、先生も熱くなってくださった。
高校を卒業して15年目にUターン、その後しばらくして音楽活動を再開し広がって行くなかで、高校OBとして、100人の吹奏楽や益田市民吹奏楽団など、高橋先生と関わる事も増えていった。

お通夜も葬儀も、たくさんの方が参列された。

昭和58年の大水害で被災。楽譜やいろんなものが流れて消えた。
現存する一番古い写真パネルになってしまった・・・。
何度も自慢するけど、ここには東京都交響楽団首席、The Trunpet Concertの岡崎耕二や
名古屋フィルハーモニー首席オーボエ、名古屋ダブルリードアンサンブルやトリオデブランチの山本直人もいる。
高橋先生は「この二人は絶対大物になると思ってた」そうである。
高校に借りに行って良かった。奥様やご家族も喜んでくださったし。
これも

これも

地元にいる者の務め。友の想いを届けるため。
地元に居て、歳を取るごとにこの務めが増えるんだなぁ・・・。
切ないけど・・・。

「大地讃頌」の大合唱でお見送り。
とっても素敵で、そして悲しかった。
憶えてた、歌えたわ。
自分のときはどうなるのだろう・・・。
と、考えるようになったなぁ。
ま、ロクでもないあたしは、それなりに。
心より、ご冥福をお祈りいたします。
あしたから東京出張にはじまり、ゲロ忙しい1週間がやってくる・・・。